「アイデンティティ」あらすじ
死刑囚マルコム・リバースは多重人格障害の疑いがあり死刑執行の前夜、彼の罪を問う再審議が行われようとしていた。
一方、大雨のために裏寂れたモーテルに一晩閉じ込められることになった11人の男女は何者かに次々と殺されて行く。女優の運転手であるエドは次第に連続殺人の奇っ怪さを感じ始め、
ーWikipedia よりー
登場人物のエドの運転している車にサルトルの「存在と無」という本が置かれていました。
映画の題名は「アイデンティティ」です。
「アイデンティティ」を手に取った理由は、前回の映画評論「スプリット」
の登場人物と同様に、
本作の主要な登場人物が解離性同一性障害であり、この二作を比較することで映画に迫りたいと思ったからです。
冒頭でこんな問いが投げかけられます。
「君は誰かね?」
この問いが「アイデンティティ」の問題だと思います。
前回の「スプリット」で、僕は映画と現実を分けがちだと書きました。
今回の「アイデンティティ」でも、問題は登場人物がどうして解離性同一性障害になったのかという理由にあります。
どちらの登場人物も児童虐待を理由に解離性同一性障害を発症しています。
ところで、映画を現実に起きていると考えるなら、一つだけ問題が起こります。
その問題こそが僕が映画と現実を分けている理由であり、登場人物が解離性同一性障害を発症した理由であり、「君は誰か?」という問題です。
君と書いていると紛らわしくなるので僕とします。
「僕は誰か?」
という問題です。
ここで「サルトル全集 存在と無」(サルトル全集第十八巻 株式会社人文書院)のP18から引用します。
「現れは、それとは別のいかなる存在者によっても支えられていない。現れは、それ自身の存在をもっている。」
つまり、現れとは何か?という問題です。
サルトルによれば自身の存在をもっているものが現れと書いてあります。
現れとはそれ自身です。
「僕は誰か?」という問題は
「僕自身は誰か?」という問題です。
映画の話に戻ります。
映画と現実が分かれていると思うのは登場人物と僕自身が違う人生を歩んでいるからです。
同じ人生を歩んでいるなら映画と現実はきっと同じだと思うはずです。
ここに「僕自身は誰か?」という問題の鍵がありそうです。
鍵とはどんな人生を歩んでいるのか?という問題です。
映画の登場人物は皆脚本通りの人生を歩んでいます。
言い換えれば映画の登場人物はどの登場人物も(例外なく)脚本に従っています。
こう書けば答えは明白です。
僕自身とは自由な(脚本に従わない)人物です。
冒頭の問題に戻ります。
「君は誰かね?」
とは「君は脚本に従っていますか?それとも自由(脚本に従っていない)ですか?」
という問題だと思います。
最後の問題です。
問題は「誰が脚本を書いているのか?」です。
問題を言い換えれば
「誰の脚本に従っているのか?(もしくは従っていないのか?)」です。
僕は脚本を書くとは選択問題だと思います。
右手にみかん、左手にりんごを持つ。
誰が選ぶのか?
僕です。
(映画の登場人物ではないのですし、)どちらを食べるか(脚本)は選べます。
人生はどちらを食べるかです。
いつもお読みくださりありがとうございます。
明読斎