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「超・妄想コンテスト テーマ:お掃除」大賞  雲灯(くもあかり)さんの「プールサイドのブルー」の考察

みなさんこんばんは。

 

今回は僕が小説を投稿しているエブリスタの

「三行から参加できる超・妄想コンテスト テーマ:お掃除」

で大賞を取られた、

 

雲灯(くもあかり)さんの

「プールサイドのブルー」について考察します。

 

短いお話ですので、

是非ご一読されると、より考察を楽しめることと思います。

 

estar.jp

 

※以下、ネタバレも含みますし、何より僕の個人的な考察となることをご了承ください。

 

①「プールサイドのブルー」をどう読むか?

 一見、掃除ロボットが出てきて、どうやらその掃除ロボット目線でユニークな芝刈りロボットとの関わり、ひいては人類の行く末(ラストにはロボットの行く末も)を描いた作品に見えます。

それで、読んだ後に心に残るものがあります。

今回のコンテストのテーマは「お掃除」だったのですが、

この話は、主役とも取れる掃除ロボットのブルーがお掃除ロボットという設定になっているものの、掃除じゃないことがテーマになっていそうだと読むことができます。

じゃぁ、一体どんなテーマになっているのかというところが、この話の深いところだと思います。

このテーマに関する話は後に譲るとして、まずこの話をどう読むかというところで気になるのは、ブルーがどうやらずっとロボットらしいロボットを演じているというところです。

つまり、どういうことかというと、ブルー以外にもロボットが出てくるのですが、

彼らブルー以外のロボットは、ロボットらしいロボットではないということです。

この部分がこの話のテーマの鍵になると僕は考えます。

一方、この話には人間が出てきます。しかし、この話の人間は近いようで私たちとは遠い人間に見えます。

確かに、愚かさという点では私たちと非常に近いものとして描かれます。

ところが、彼ら人間は私たちと違って葛藤を持っていません。

同じようにブルーもロボットなので葛藤を持っていません。

では、葛藤を持っているのは誰かというと、それは芝刈りロボットのグラスです。

グラスだけ(お料理ロボットのクックはあくまでグラスのコピーであり、話に説得力を持たせる役割に見えます)が、葛藤を持っています。

この話のテーマは、そのグラスの持つ葛藤です。

言ってしまえば、この話のテーマを背負っているのは、グラスです。

ブルーはロボットに徹していることもあり、テーマを背負っているグラスを映すカメラになっています。

ですから、もちろん人によって感想は違いますが、私たちの多くが感情移入するのはブルーでもなく、人間でもなく、グラスです。

ところで、この話はロボットたちが、ご主人様よりあらゆる判断が出来るようになる「自律回路」を与えられたところから始まります。

この「自律回路」が考察上の問題になります。

私たちは普通はいわゆるロボットというのは自立していないロボットを想像します。

しかし、この話では自律回路を得て、ブルーは今まで通り掃除をする一方、グラスはロボットの境界線を越えていきます。

この話の中ではロボットは、「①与えられた仕事をするもの」であり、「②感情のないもの」として描かれます。

ロボットの境界線を越えるとは、「①与えられた仕事をするもの」であり、「②感情のないもの」の境界線を越えることです。

この話の中では、例えば「自己拡張する」とか「人間になる」とか「変容する」などのように、ロボットの境界線を越えることが様々な言葉で表現されます。

では、グラスが自己拡張し、人間になり、変容するというのはどういうことかといえば、それは、自分のために働くということです。

グラスは使用者のために働く存在から自分のために働く存在になります。

そうすると、この話のテーマが浮き彫りになります。

この話のテーマは、私たちは誰のために働くのか?です。

私たちの多くは、使用者の元で働く労働者です。

会社を見れば社長の元で働く労働者であり、社会を見れば一部の人間の元で働く労働者です。

ですから、私たちの多くがこの話のロボットです。

そして、社長であり一部の人間がこの話の人間です。

冒頭で、この話の人間を近いようで私たちとは遠い人間と書いたのは、この話のロボットが労働者であり、この話の人間が使用者だからです。

それで、私たち労働者の、私たちは誰のために働くのか?という問題がこの話のテーマです。

グラスは自律回路を得て、労働者と使用者の境界線を越えました。

自己拡張することであり、人間になることであり、変容することは労働者と使用者の境界線を越えるということです。

ですから、この話はロボットが人間になるというモチーフの中で、私たち労働者が使用者になることを描いた物語です。

だからこそ、私たちの多くは労働者の境界線を越えるグラスに感情移入します。

 

②「プールサイドのブルー」の対立軸

「プールサイドのブルー」の対立軸を探ります。

一番大きな対立軸は、ロボットと人間です。

続いて労働者と使用者です。

そこから派生する形で、様々な対立軸が生まれます。

前者を代表するのがブルーです。

後者を代表するのが人間です。

そしてさらに対立するのが、誰かのために働くことと、自分のために働くことです。

また隠れた形で対立するのが、感情のないことと、感情のあることです。

さらに隠れた形で対立するのが、変わらないことと、変わることです。

そして最後に、不自由と自由です。

グラスはそれらの対立の間に存在します。

グラスはまさに白と黒の境界線を越える灰色の存在です。

この話の中では完全なロボットであるブルーが一貫して感情がないのに対し、

グラスは灰色の存在だからこそ、徐々に感情を持つようになります。

グラスは、ラストで「ブルーこそがロボットの完成形だった」と境界線を越えたことを後悔します。

つまり、使用者のために働くことが良いと後悔したわけです。

グラスは境界線を越えたからこそ感情を露わにしました。

しかし、その感情はブルーと対立するものでした。

グラスの立ち位置である白でも黒でもない、灰色の存在は名作によく現れます。

例えば、「寄生獣」のシンイチは人間と寄生獣の間であり、灰色の存在です。

そして、「ゲゲゲの鬼太郎」の影の主役であるねずみ男は妖怪と人間の間であり、やはり灰色の存在です。

ドラゴンボール」のミスターサタンもヒーローと凡人の間であり、灰色の存在です。

灰色の存在は白と黒の間で葛藤します。

ですから、僕たちは灰色の存在を通して葛藤の答えを見つけます。

「プールサイドのブルー」では、その葛藤の答えを提示するがグラスでした。

 

③「プールサイドのブルー」の結末の意味すること

グラスはラストで「俺たちの仕事はすべて、人間たちに捧げるべきだった」と呻きます。

そして、自壊するという結末を迎えます。

しかし、この結末は共感する人から、反対の感情を持つ人まで様々にいると思います。

なぜなら、それは各人が対立の労働者側に共感するか、使用者側に共感するか、それぞれ立場が違うからです。

この話では、ブルーが寿命を全うし、グラスは自壊しました。

ですから、それぞれ立場が違うのだから、変わった話にはなりますが、この話は反対にブルーが自壊し、グラスが寿命を全うする話にもなり得たということです。

どちらの結末になるかはちょうど天秤の針がどちらを差すかという問題です。

私たちは単純に白と黒には分けられません。

言うなればグラスと同じ、灰色です。

私たちは誰のために働くのか?という問題に対し、

労働者から使用者まで様々な立場があります。

グラスは自壊するという結末を迎えました。

しかし、自分はブルーのように使用者のために働くのか?

それともグラスのように自分のために働くのか?

私たちは誰のために働くのか?というという問題の答えは、各人が考えることだと思います。

グラスは私たちに単純ではない問題を投げかけます。

ちなみに僕は、冒頭に書いたように読んだ後に心に残るものがありました。

それは、少しだけ危険だと分かっていてもグラスのように自分のために働きたいと考えるからです。

 

最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

 

 

おまけ:検討図(字が汚くてすみません)

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