言葉の問題

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統合失調症と引き寄せの法則14 〜人生の荒波に乗る方法〜

みなさんこんにちは。

 

統合失調症と引き寄せの法則も第14回となりました。

 

全体の統括に入ろうと思ったのですが、

 

あれも書きたいこれも書きたいということで、

 

結局、入れていません。

 

ですので、もう少し書きたいことを書いてみます。

 

前回は「コントロール思考」のことを書きました。

 

「コントロール思考」はあたかもコントローラーを握って

 

現実をコントロールしようとするような思考です。

 

必死にコントローラーを握って

 

現実をコントロールしようとする。

 

しかし、現実という蝶々は、

 

コントロールされることが嫌いです。

 

僕たちが蝶々をコントロールしようとすればするほど、

 

蝶々はひらりと身をかわして逃げていきます。

 

蝶々が逃げるからといって、なおのこと

 

蝶々をコントロールしようとすれば、

 

蝶々はさらに逃げていきます。

 

さて、僕たちが現実をコントロールしようとするとき、

 

実はおそろかになっているものがあります。

 

それは何かと言えば、

 

それは僕たち自身のコントローラーです。

 

え?僕たち自身のコントローラー?

 

そんなのあるの?

 

と驚かれる方もいるかもしれません。

 

実は、イメージとしては、

 

僕たちの背中からニョキっと生えているような形で、

 

僕たち自身を動かすコントローラーがあるのです。

 

そのコントローラーを握ると、

 

僕たちが自分で自分をコントロールできます。

 

しかし、僕たちが現実をコントロールしようとするとき、

 

このコントローラーはおろそかになっているのです。

 

ここだけの話ですが、

 

うまいこと、僕たちが現実をコントロールしようと

 

するように仕向けて、

 

大事な大事な僕たち自身のコントローラーを僕たちに代わって握ってしまう

 

人々がいることも事実です。

 

ですが、ここではそのことは深堀りしません。

 

なぜなら、他人がいくら僕たち自身のコントローラーを握ろうとしたとしても、

 

結局は僕たちが僕たち自身のコントローラーを握ってさえいれば、

 

何も害はないからです。

 

害があるのは、僕たちが現実をコントロールしようとして、

 

僕たち自身のコントローラーをおろそかにしたときだけです。

 

それで、結局僕たちは一体何をコントロールする必要があるのか?という問題について

 

考えます。

 

僕たちが現実をコントロールしようとするとき、

 

僕たちは僕たち自身のコントローラーがおろそかになり、

 

僕たち自身のコントロールを失います。

 

しかし、一方、

 

僕たちが現実をコントロールするのをやめたとき、

 

僕たちはしっかりと僕たち自身のコントローラーを握ることができ、

 

僕たち自身のコントロールを保つことができます。

 

こう考えれば答えは一目瞭然です。

 

僕たちは現実ではなく、僕たち自身をコントロールする必要があると言えます。

 

それで、僕たち自身をコントロールするというのはどういうことかというと、

 

それは別の考え方を使って理解する必要があります。

 

それは、このシリーズの前半において

 

「光の望み」と「影の望み」でも触れたように、

 

光をコントロールする必要があるということです。

 

はて?光とは一体?と思うでしょうが、

 

順を追って説明したいと思いますが、

 

まずはイメージしていただきたいのですが、

 

先ほどイメージしていただいた僕たちの背中からニョキっと

 

生えたコントローラー。

 

そのコントローラーは僕たちの体内へと繋がり、先端が僕たちの意識へと繋がっています。

 

そうです。

 

光とは何か?

 

その答えです。

 

光とは僕たちの意識です。

 

ですから、僕たちが本当にコントロールする必要があるのは

 

僕たちの意識です。

 

先ほどの例えを言い換えれば、

 

僕たちが現実をコントロールしようしているとき、

 

僕たちの意識はおそろかになり、他人に容易に握られてしまうということです。

 

しかし、僕たちが現実をコントロールするのをやめたとき、

 

僕たちの意識は僕たち自身の手に収まり、自分で意識をコントロールできるようになります。

 

それで、意識を光に例えたのは理由があります。

 

それは、意識にはまるでランプのように、

 

明るさがあるということです。

 

僕たちが現実をコントロールしようとするとき、

 

ランプは暗くなります。

 

しかし、僕たちが現実をコントロールするのをやめたとき、

 

ランプは明るくなります。

 

引き寄せの法則では、このランプの明るさと同等のものを引き寄せます。

 

どういうことかというと、例えば、ランプが明るければ明るいものを。

 

ランプが暗ければ暗いものを引き寄せるということです。

 

ですから、僕たちは現実ではなく、僕たちの意識をコントロールする必要があるということです。

 

それで、僕たちが僕たちの意識をコントロールすると、結果的に僕たちは現実という蝶々を引き寄せることが出来るということです。

 

今回はここまでにします。

 

長文にお付き合いくださりありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

統合失調症と引き寄せの法則13 〜人生の荒波に乗る方法〜

みなさんこんにちは。

 

統合失調症と引き寄せの法則も13回となりました。

 

今回は、

 

前回予告した通り、幸せを掴む技術について書きます。

 

僕たちはなんとか幸せを掴もうと一生懸命になります。

 

一生のうちのほとんどの時間をそのことに充てていると言ってもいいと思います。

 

それで、たまに大きな痛手を被ったりして(僕の場合は統合失調症を患ったことです)

 

「どうしてこんなことになったのだろう」などと

 

頭を抱えたりします。

 

ひどいときには、「もう人生終わりだ」などと悲観することもあることは

 

共感いただけると思います。

 

しかし、ほとんどの場合は、それで人生が終わることが

 

ないのも、ある意味では事実です。

 

僕も現にこうしてブログを書いています。

 

では、実際に「もう人生終わりだ」と思ったときに、一体何が終わったのでしょうか?

 

本当に人生が終わったのでしょうか?

 

実は、そうではありません。

 

そのときは人生が終わったのではなく、現実のコントロールが終わったのです。

 

ずっと、幸せを掴もうと現実をコントロールしてるつもりだった。

 

しかし、大きな痛手を被って現実をコントロールできない状態となった。

 

ここでは、僕たちの中にある現実をコントロールする思考のことを「コントロール思考」と

 

呼ぶことにしますが、

 

人生が終わったという状態は、その「コントロール思考」が終わったという状態になります。

 

本人にとっては人生が終わったかのように見えることも、

 

実際はただ「コントロール思考」が終わったに過ぎないということです。

 

しかし、僕たちは万事うまくコントロールしているつもりで、

 

生きていますから、現実のコントロールが終わるとなると、

 

まるで人生そのものが終わったかのように思えてしまうのです。

 

実は、この「コントロール思考」がとても曲者です。

 

僕たちは多くの場合、幸せを掴むには、うまく現実をコントロールする必要があると

 

無意識に思っています。

 

幼少期からそのように叩き込まれているからです。

 

しかし、本当のことを言うと、現実をコントロールしているつもりになっても、

 

実際は、全くもって現実をコントロールできていないのですが、

 

僕たちはそのことに気づきません。

 

僕たちはあたかも、現実をコントロールしているかのごとく日々を送っています。

 

それで、なにが厄介かというと、

 

実は、こともあろうに、この「コントロール思考」自身が僕たちから幸せを遠ざけているのです。

 

どういうことかというと、

 

現実をコントロールしようとすると、

 

その現実に焦点を合わせることになります。

 

しかし、コントロールしたいぐらいですから、その現実はおそらく「望まない現実」のはずです。

 

ここでその「望まない現実」に引き寄せの法則が働くのです。

 

僕たちが焦点を合わせたその「望まない現実」に引き寄せの法則が働き、

 

その「望まない現実」がどんどん拡大するのです。

 

何をしても幸せな気がしないというのは、およそこの状態に陥っているときです。

 

それで、冒頭に述べた「もう人生終わりだ」と思ったときというのは、

 

実際にはかえって大チャンスであることがお分かりになると思います。

 

なぜならそのときは、僕たちにとって曲者である「コントロール思考」が終わりを迎えようとしているからです。

 

「コントロール思考」が終わりを迎えようとしているというのは、

 

僕たちから幸せを遠ざける曲者が、終わりを迎えようとしているということです。

 

本当はそんなものはさっさと捨ててしまってもいいのですが、

 

僕たちは幼少期から「コントロール思考」を使う訓練をしていますので、

 

「コントロール思考」をなかなか捨てられないのです。

 

ここで昔の人が残した言葉がありますので紹介します。

 

「幸せは蝶々に似ている。

 

追いかければ追いかけるほど、

 

ヒラヒラと身をかわし逃げてしまう。

 

でも、他のことに夢中になっていると、

 

蝶々は静かにやってきて、

 

いつの間にかあなたの肩に止まっている」

 

 

この文章の中に「コントロール思考」が

 

うっすらと見え隠れするのではないでしょうか。

 

それでは、この文章をあえて、分かりやすく書き換えてみます。

 

 

「幸せは蝶々に似ている。

 

蝶々をコントロールしようとすればするほど、

 

蝶々はヒラヒラと身をかわし逃げてしまう。

 

でも、あなたが他のことに夢中になり、

 

蝶々をコントロールしようとするのをやめると、

 

蝶々は静かにやって来て、

 

いつの間にかあなたの肩に止まっている」

 

幸せを掴む技術とは、上記の文章で言えば、

 

蝶々を掴む技術だとも言えます。

 

ここまで読んでいただくと、

 

何かぽかんとする感じを受けるかもしれません。

 

それは今までやってきたこととあまりにも真逆のことだからです。

 

「幸せを掴もうとするのをやめる」ことが

 

「幸せを掴む」技術だということです。

 

逆に言えば、

 

「幸せを掴もうとしている」限り、

 

「幸せは掴めない」とも言えます。

 

ところで、「コントロール思考」という言葉なんて初めて聞いたと言われるかもしれません。

 

「コントロール思考」は僕の造語で、他では「エゴ」と呼ばれたりします。

 

実はこの社会というのはこの「コントロール思考」を前提に作り上げられています。

 

ですから、どこを見渡しても現実をコントロールすることが前提になっています。

 

だからこそ、「コントロール思考」を捨てるなんて社会からはみ出すみたいで、

 

怖くてできないのです。

 

しかし、幸せを掴めるかどうかはこの「コントロール思考」を捨てられるかどうかにかかっています。

 

「そんなのできないよ」という声が聞こえてきそうですが、

 

実はこれには便利な考え方があります。

 

その考え方とは「コントロールしないことが最大のコントロールだ」という考え方です。

 

この考え方なら、幼少期から叩き込まれた「コントロール思考」を捨てられなくても、

 

「コントロール思考」というハンドルの先には、実質何も繋がっていないようなものです。

 

このハンドルの先には何も繋がっていないので、何もコントロールすることはできません。

 

この考え方では、今まで通り、現実をコントロールしているつもりでいても、実際には何もコントロールしないということになります。

 

実際には何もコントロールしないのですから、

 

蝶々をコントロールしようとすることもありません。

 

コントロールしようとしなければ、「望む現実」に引き寄せの法則が働き、

 

蝶々は静かにやってきて、いつの間にか僕たちの肩に止まるということです。

 

幸せを掴む技術について書いてきましたが、

 

今回はここまでになります。

 

長文にお付き合いくださりありがとうございます。

 

統合失調症と引き寄せの法則 12 〜人生の荒波に乗る方法〜

みなさんこんにちは。

 

統合失調症と引き寄せの法則も第12回となりました。

 

今回は、全体統括の第一歩目です。

 

前回の記事で、

 

この世界は僕たちが内心どう思うかに見合った顔を見せているにすぎないと書きました。

 

それで、ここはとても重要な問題を含んでいます。

 

それは幸せについての問題です。

 

僕たちはほぼ無意識に幸せを自分の外に求めます。

 

僕たちは、外に何かあるに違いない幸せをほぼ一生かけて手に入れようとします。

 

確かにこれは普通のことです。

 

自分が持ってない幸せがあるのだから、その幸せを手に入れたい。

 

それは、ごく自然なことです。

 

しかし、冒頭で述べたように、「この世界は僕たちが内心どう思うかに見合った顔を見せているにすぎない」

 

のだとしたら、話は変わってきます。

 

なぜなら、僕たちが幸せを自分の外に求めるということは、

 

僕たちは内心では「幸せではない」と思っていることになるからです。

 

そうなると、この世界は僕たちの「幸せではない」という内心に見合った証拠を度々見せることになります。

 

そして、その証拠を見た僕たちは、

 

内心でますます「幸せではない」という思いを強くすることになります。

 

これは「幸せではない」という思いがループしています。

 

この世界は、実際「幸せな」顔も「幸せではない」顔もどちらの顔をも持っています。

 

この世界はただ、僕たちの内心に見合った顔を見せているにすぎません。

 

そう考えるならば、

 

僕たちが内心で「幸せだ」と思うことが何よりも重要なのですが、

 

それは簡単ではない部分があります。

 

というのは、僕たちが自分の外に「幸せではない」証拠を見ながら、

 

その反面、

 

内心で「幸せだ」と思うのは、

 

本能的に難しいからです。

 

これは、このシリーズの最初の話で、

 

幼稚園児の僕がお化け屋敷を見ながら大泣きし、

 

ソリ遊びに意識を向け続けることができなかったのと同じことです。

 

この世界の「幸せではない」証拠というのは、それだけ強烈に僕たちの意識を

 

捉えてしまいます。

 

これは、僕たちが現実をコントロールしたいという

 

欲求に根付いている事実だとも思えます。

 

僕たちはなるべく、「望まない現実」をコントロールし、

 

「望む現実」を叶えたい。

 

そのような欲求のせいで、僕たちの意識はこの世界の「幸せではない」証拠に捉えられてしまいます。

 

それで、もし、僕たちが内心で十分に「幸せだ」と思うことが出来たなら、

 

実は本当に、自分の外に「幸せだ」と思う証拠が現れてくるのですが、

 

僕たちはなぜか内心で「幸せだ」と思い続けることが難しいようです。

 

僕たちはすぐに自分の外に幸せの証拠を探し始めてしまいます。

 

僕たちが自分の外に幸せの証拠を探し始めるということは、

 

そのときはすでに内心では「幸せではない」と思い始めたということなので、

 

自分の外には、幸せの証拠が現れることなく、

 

代わりに、幸せではない証拠が現れてくることになります。

 

しかし、ここでもし、僕たちが十分に内心で「幸せだ」と思うことが出来たなら、

 

そのときは、自分の外に幸せの証拠が現れてきます。

 

それで、幸せの証拠が現れてくるときは大体、偶然を装った形で現れます。

 

幸せというのはよっぽど僕たちにコントロールされるのが嫌みたいです。

 

幸せが偶然を装った形で現れるというのはその特徴だと思います。

 

ここで結論を書きます。

 

僕たちが内心で十分に「幸せだ」と感じることが出来たなら、

 

幸せの証拠は、偶然を装った形で自分の外に現れてきます。

 

だいたいの場合は、その逆で

 

僕たちは自分の外に幸せの証拠を探すあまりに、

 

内心で「幸せでない」と思ってしまい、

 

ますます、幸せの証拠が見えなくなり、

 

代わりに現れた、幸せでない証拠を見た僕たちは

 

内心でますます「幸せでない」という思いを強くしてしまいます。

 

「十分に内心で幸せだと思い続ける」

 

というと、精神論のように聞こえると思いますが、

 

これは「幸せだ」と思い込むのとは違います。

 

「十分に内心で幸せだと思い続ける」

 

要するに、幸せを掴むのにはちょっとした

 

技術があるのですが、

 

それは次回にします。

 

次回から少しずつ、一歩ずつ

 

全体の統括をしていきたいと思います。

 

長文にお付き合いくださりありがとうございました。

統合失調症と引き寄せの法則 11 〜人生の荒波に乗る方法〜

 

みなさんこんにちは。

 

「統合失調症と引き寄せの法則 〜人生の荒波に乗る方法〜」も第11回となりました。

 

今回は前回に問題提起した、

 

どうして僕たちはこの世界がたまに見せるとびっきりの笑顔を「偶然」と一蹴してしまうのか?

 

という問題と、

 

そもそも「必然」とは一体どういうことなのか?という問題について書いていきます。

 

まず、初めに前回書いたこの世界の擬人化の話を

 

逆にしたエピソードを書いてみます。

 

以下、この世界の擬人化の話を逆にしたエピソードです。

 

『実はこの世界はたまに僕たちに微笑みかけているのです。

 

それもとびっきりの笑顔でです。

 

いつも笑顔でいる僕たちはその笑顔がいつも目に入っています。

 

僕たちは「これは必然だ」と言って受け入れます。

 

それを聞いたこの世界は僕たちに同意し、

 

「そうです。あなたのおっしゃる通り、これは必然です」と言って、しかめっ面

 

をやめて、

 

僕たちと同じ笑顔を見せます。

 

それを見た僕たちは「ほら、やっぱりこの世界は僕たちに笑顔を見せている。この世界は自分の思い通りになる」といって、

 

一層自分の笑顔を強くするのです。

 

このことは一見して分かる通り、笑顔の原因がループしています』

 

どうでしょうか。

 

前回のエピソードを逆にしたものです。

 

これはある種、理想と言えるのではないでしょうか。

 

しかし、前回のエピソードと今回のエピソードは何が違うのでしょうか。

 

僕たちがいつも笑顔でいることが必要だということでしょうか。

 

この問題はそれよりももっと深いところに答えがあるように思えます。

 

ここで、僕が体験したエピソードを書きます。

 

事実を元に、少し分かりやすくしています。

 

僕はあるとき、まとまったお金が必要でした。

 

そのお金が用意できないととても困ったことになります。

 

しかし、僕はどうしてもそのお金を用意する手立てがありません。

 

僕は街中をトボトボと歩いているとふと宝くじ売り場が目に入りました。

 

手持ちのお金はわずかだったのですが、

 

なんとなくスクラッチくじを買ってみようと

 

思いました。

 

そのときはもう頭の中からお金のことは消えていました。

 

ただ、どうしようもないので気を紛らわせる気持ちでスクラッチくじを買ったのです。

 

そしたら、なんと買ったスクラッチくじが当たってしまいました。

 

それで、準備する必要のあった金額と同じ金額が手元に入ってきたのです。

 

・・・このエピソードを読んで、

 

スクラッチくじが当たったのは「必然」だと思う方はいないでしょう。

 

ほとんどの方はこれを「こんなのは偶然だ」と思うのではないでしょうか。

 

しかし、もし、このときの僕が

 

疑いなく当たり前というレベルまで「困ったときは必ず偶然が助けてくれる」と思っていたらどうでしょう。

 

その場合のエピソードを書いてみます。

 

僕はあるとき、まとまったお金が必要でした。

 

そのお金が用意できないととても困ったことになります。

 

しかし、僕はどうしてもそのお金を用意する手立てがありません。

 

僕はいつも「困ったときは必ず偶然が助けてくれる」と思っています。

 

僕は街中をトボトボと歩いているとふと宝くじ売り場が目に入りました。

 

手持ちのお金はわずかだったのですが、

 

なんとなくスクラッチくじを買ってみようと

 

思いました。

 

そのときはもう頭の中からお金のことは消えていました。

 

ただ、なんとなくの気持ちでスクラッチくじを買ったのです。

 

そしたら、なんと買ったスクラッチくじが当たってしまいました。

 

それで、準備する必要のあった金額と同じ金額が手元に入ってきたのです。

 

このエピソードはどうでしょうか。

 

偶然は偶然に違いないのですが、僕がいつも「困ったときは必ず偶然が助けてくれる」

 

と思っていることによって、偶然とも言えない何かが

 

漂ってくるのを感じられるのではないでしょうか。

 

このときの僕はきっと「ほら、やっぱり困ったときは必ず偶然が助けてくれる。この世界は自分の思い通りになる」と言って、一層笑顔を強くした

 

ことでしょう。

 

僕の内心の違いによって、

 

スクラッチくじに当たったのが、偶然だったのかそれとも必然だったのかという評価が変わってきます。

 

この内心、つまり僕がいつもどう思っているかということ。

 

とりわけ、疑いなく当たり前だというレベルまで内心に思っていることを

 

潜在意識と呼んだりします。

 

後者のエピソードの僕は、スクラッチくじに当たったことを

 

「必然」と評価したことでしょう。

 

そうなると、「必然」か「偶然」かの違いは、

 

内心にどう思うか次第とも言えそうです。

 

しかし、誤解のないように書くと、「困ったときは必ず偶然が助けてくれる」と思っていれば、いつもスクラッチくじに当たるということではありません。

 

そうではなくて、

 

いつも「困ったときは必ず偶然が助けてくれる」と思っていれば、その内心に見合った現象を目にすることが多くなるということです。

 

僕たちはこの世界の中で内心に思っていることの証拠を度々目にします。

 

その証拠によって、僕たちはますます内心に思っていることを強固なものにします。

 

なぜならこの世界は、

 

「そうです。あなたのおっしゃる通り、これは偶然です」または、

 

「そうです。あなたのおっしゃる通り、これは必然です」

 

と言って、僕たちの内心に同意するからです。

 

そうすると、この世界というのは、本来の決まった顔というものはなく、

 

「偶然」と「必然」という真逆の性質のものでさえ、どちらの顔をも持っているということになります。

 

この世界は、僕たちの内心がどう思っているかに合わせて、ただその内心に見合った顔を見せてくれるにすぎないということです。

 

このことは何も「偶然」か「必然」かだけに言えることではありません。

 

この世界は、どんなことにおいても僕たちの内心に見合った顔を見せてくれるにすぎないということです。

 

長くなったので今回はここまでにします。

 

次回は、そろそろ統括に入っていきたいと思います。

 

長文におつきあいくださりありがとうございます。

 

 

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