言葉の問題

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エッセイ「仕事を成功させるにはあれを綺麗にする。」

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仕事をしていると、この仕事は失敗しそうだと気がつくことがあります。

 

仕事が失敗する前に、

  • あたふたし始める。
  • 余裕を感じられなくなる。
  • 雰囲気が悪くなる。

などの症状が現れます。

 

こうなると、

  • 誰が悪いのか?
  • 何が悪いのか?
  • どうして悪いのか?

が問題に上がります。

 

しかし、忘れがちな問題があります。

条件です。



条件は一番見たくないものとも言えます。

この見たくないものとは、普段よく見ているものです。

 

机です。



仕事をするからには机が必要となります。

仕事が失敗するときは机がいっぱいになります。

机がいっぱいになると余裕を感じられなくなります。



机は条件です。

 

仕事を成功させるには条件を綺麗にします。



条件は以下の6つです。



  • だれがするのか?
  • どこでするのか?
  • どのようなときにするのか?
  • どうしてするのか?
  • どのことをするのか?
  • どのようにするのか?



机を綺麗にすれば仕事は成功します。

机は何の上で仕事をしているのか?です。

 

お読み下さりありがとうございます。

 

明読斎

哲学と言葉のこと

前回の記事でサルトルの言葉を取り上げました。

 

今回は哲学の問題を取り上げたいと思います。




取り上げる問題は、哲学とは何か?です。

 

私たちはどこから来たのか?は、哲学とは何か?です。

 

 

分かりやすいので、私たちはどこから来たのか?をマラソンに例えます。



私たちはどこから来たのか

 

私たちはどこから走るのか

 

を意味します。




マラソンは到着地点を目指して走るのだから、

 

私たちはどこから走るのか?は、

 

私たちはどこを走るのか?

 

を意味します。




分かりやすいので、マラソンを更に生き方に例えます。

 

私たちは生まれてから死ぬまでを生きるのだから、

 

私たちはどこを走るのか?は、

 

私たちはどのように生きるのか?を意味します。

 

 

人生のことは前回の記事に書きました。

 

要するに、生きるとはりんごとみかんのどちらを食べるのか?の選択問題です。

 

生きるとは大事な方を選ぶことなので、

 

私たちはどのように生きるのか?は、

 

私たちはどんなことを大事にしているのか?を意味します。




つまり、

 

哲学とは、どんなことを大事にしているのか?です。

 

僕の大事にしていることは、とにかくやることです。

 

あなたの大事にしていることはどんなことですか?





それが哲学です。




明読斎

 

次回は、『ブログでやり直す国文法  中学一年から三年の振り返り 「二.文節と文節の関わり」』

です。

 

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読んでくださりありがとうございます。

いつも感謝しています。

僕への意見やアドバイス、疑問、質問

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「アイデンティティ」の言葉のこと

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「アイデンティティ」あらすじ

死刑囚マルコム・リバースは多重人格障害の疑いがあり死刑執行の前夜、彼の罪を問う再審議が行われようとしていた。

一方、大雨のために裏寂れたモーテルに一晩閉じ込められることになった11人の男女は何者かに次々と殺されて行く。女優の運転手であるエドは次第に連続殺人の奇っ怪さを感じ始め、

Wikipedia よりー

 

登場人物のエドの運転している車にサルトルの「存在と無」という本が置かれていました。

映画の題名は「アイデンティティ」です。

アイデンティティ」を手に取った理由は、前回の映画評論「スプリット

 

kotobanokoto.hatenablog.com

 

の登場人物と同様に、

本作の主要な登場人物が解離性同一性障害であり、この二作を比較することで映画に迫りたいと思ったからです。

 

冒頭でこんな問いが投げかけられます。

「君は誰かね?」

この問いが「アイデンティティ」の問題だと思います。

 

前回の「スプリット」で、僕は映画と現実を分けがちだと書きました。

今回の「アイデンティティ」でも、問題は登場人物がどうして解離性同一性障害になったのかという理由にあります。

どちらの登場人物も児童虐待を理由に解離性同一性障害を発症しています。

 

ところで、映画を現実に起きていると考えるなら、一つだけ問題が起こります。

その問題こそが僕が映画と現実を分けている理由であり、登場人物が解離性同一性障害を発症した理由であり、「君は誰か?」という問題です。

 

君と書いていると紛らわしくなるので僕とします。

 

「僕は誰か?」

 

という問題です。

ここで「サルトル全集 存在と無」(サルトル全集第十八巻 株式会社人文書院)のP18から引用します。

「現れは、それとは別のいかなる存在者によっても支えられていない。現れは、それ自身の存在をもっている。」

 

つまり、現れとは何か?という問題です。

サルトルによれば自身の存在をもっているものが現れと書いてあります。

現れとはそれ自身です。

 

「僕は誰か?」という問題は

「僕自身は誰か?」という問題です。

 

映画の話に戻ります。

映画と現実が分かれていると思うのは登場人物と僕自身が違う人生を歩んでいるからです。

同じ人生を歩んでいるなら映画と現実はきっと同じだと思うはずです。

 

ここに「僕自身は誰か?」という問題の鍵がありそうです。

 

鍵とはどんな人生を歩んでいるのか?という問題です。

映画の登場人物は皆脚本通りの人生を歩んでいます。

言い換えれば映画の登場人物はどの登場人物も(例外なく)脚本に従っています。

 

こう書けば答えは明白です。

僕自身とは自由な(脚本に従わない)人物です。

 

冒頭の問題に戻ります。

 

「君は誰かね?」

 

とは「君は脚本に従っていますか?それとも自由(脚本に従っていない)ですか?」

という問題だと思います。

 

最後の問題です。

 

問題は「誰が脚本を書いているのか?」です。

 

問題を言い換えれば

 

「誰の脚本に従っているのか?(もしくは従っていないのか?)」です。

 

僕は脚本を書くとは選択問題だと思います。

 

右手にみかん、左手にりんごを持つ。

 

誰が選ぶのか?

 

僕です。

 

(映画の登場人物ではないのですし、)どちらを食べるか(脚本)は選べます。

 

人生はどちらを食べるかです。

 

 

いつもお読みくださりありがとうございます。

 

明読斎

「スプリット」の言葉のこと

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スプリット」あらすじ

3人の女子高生ケイシー、クレア、マルシアは、クレアの誕生日パーティーの帰り道、見知らぬ男に拉致され、密室に監禁されてしまう。

そこには神経質な雰囲気を漂わせた1人の男がいた。ケイシーたちは男が部屋から立ち去った後、脱出する方法を必死に考える。

すると、ドアの外から男女の会話する声が聞こえてきた。ケイシーたちは助けを求めて声を上げるが、そこに現れたのは、女性の服に身を包み、女性のような口調で話す先ほどの男だった。

その男は何と23もの人格を持つ多重人格者で、堅物で潔癖症なデニス、品格のある女性パトリシア、9歳の少年ヘドウィグと、人格が次々と激しく入れ替わっていく。そして、24番目の人格"ビースト"が現れた時、ケイシーたちは絶望の淵に追い詰められるのだった。

Wikipedia よりー




僕は「スプリット」は映画鑑賞者の視点を問題にしていると思いました。

 

主人公のケイシーも、

 

23人の人格を持つケビンも児童虐待を受けています。

 

映画の中でケイシーは終始建物に閉じ込められています。

 

閉じ込められている建物は、まるでケイシーの心の中です

 

閉じ込められている建物の奥の奥にいるケイシー、

 

つまり心の奥の奥にいるケイシーに向かって

 

ケビンが鉄格子を開けてこう言います。

 

「お前の心は汚れていない」

 

つまり、仮に児童虐待を受け、

 

23人の人格を作るほど心が汚れたとしても一番奥の心は綺麗というメッセージだと釈しました。

 

優しいメッセージだと思いました。

 

ケイシーと同じように児童虐待を受けたケビンだから言える言葉だと思います。

 

 

序盤でフレッチャー医師がこう言います。

 

「私たち心に傷を負った人を劣ってると見がちよね。でももし私たちより優れていたら?」

 

この言葉に「スプリット」のテーマが込められていると思いました。

 

つまり、フレッチャー医師は映画鑑賞者の視点のことを言っているのだと思います。

 

フレッチャー医師の言葉を映画と現実に言い換えれば、


「私たち映画の中の人物より優れていると見がちよね。

でももし映画の中の人物の方が私たちより優れているとしたら?」

 

です。




画面の手前と奥は分けられています。

 

英語でスプリット



僕たちはケイシーとケビンたちに起こった児童虐待を、画面の奥の話として見ます。

 

しかし、

 

本当に児童虐待が起こっているのは画面の手前です。




現実に起こっていることです。





画面の奥の心に傷を負った人物を、画面の手前の僕たちより劣ってると見がちで、

 

画面の奥の心に傷を負った人物より、画面の手前の僕たちの方が優れていると見がちで、

 

画面の奥と手前を分けがちな人物は、だと気がつきました。


児童虐待は現実に起こっていることです。

 

いつもお読みくださりありがとうございます。

感謝しています。

 

明読斎

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