木下すなすさんの「この夏に道が変わる」の考察
みなさんこんばんは。
今回は、Twitterでよくいいねしてくださる
木下すなすさんの「この夏に道が変わる」
の考察をします。
色々な作品がある中で、
僕が今ちょうど、老子に関する本を読んでいることもあり、
「道」という言葉に興味が湧き、この作品を選びました。
短い話ですのでぜひご一読くださると、
考察をより楽しめることと思います。
「この夏に道が変わる」はこちらです。
①「この夏に道が変わる」をどう読むか?
まず中学生の蒼太が道に関する独白をするところから物語が始まります。
それで、題名に「道」とあるように、道に関する話なのだなと読むことが
出来ます。
僕は今ちょうど老子に関する本を読んでいることもあり、「道」というのは、
通行する道であると同時に、万物を生むものであり、行き方や、生き方を表すのだろうなということを想像します。
本文中の「道は何通りかある」という表現が、そのことを暗示しているように思います。
それで、蒼太はどうやら、何通りかある道の中で、逸れた道を行くことが日常となっているようです。
そのことを蒼太は、「最短のルートを行くのが日常」と表していますが、この言葉が最後に意味を持ってきます。
そして、この時点で気になるのが、季節が夏ということに意味があるんじゃないかということです。
題名にも「夏」とあります。
蒼太は「よく晴れて世界が一層ビビッドに見えるこの季節が鬱陶しいとしか思えなくなった」と表現します。
僕は個人的にはこの「よく晴れて世界が一層ビビッドに見えるこの季節」というのは、単純に夏を表すのと同時に、中学生になり、物事がよく分かるようになった現在を表すのではないかという気がしました。
つまり、蒼太は物事がよく分かるようになるにつれ、世界が一層ビビッドに見えるようになった。
しかし、そのことを鬱陶しく感じるようになったと表しているようです。
それと同時に、蒼太は進学や勉強について、「高校に行って何するの?」と疑問を感じていることが窺えます。
蒼太はある時「こういうときに、あの人は打ってつけだから」と、叔母さんを思い出します。
その叔母さんが差し出したのは、蒼太が昔使っていた漫画の専用道具と、夢中になって描いていた漫画です。
これらは蒼太が少年時代に使っていたものです。
漫画を夢中になって描いていたと表現されるように、漫画は蒼太にとっての夢でした。
それで、蒼太は夏が鬱陶しく感じるようになった理由を見つけます。
その理由は、勉強ばかりして漫画を描かなくなったからです。
それは言い換えれば、夢を追いかけなくなったからであり、ひいては、平坦な道を行くようになったからです。
ですから、少年時代の蒼太は逆に、漫画ばかり描いていて、夢を追いかけていて、坂道を行っていたということが窺えます。
ここで少年時代と現在の蒼太の対比が見えてきます。
蒼太は少年時代は「長期休暇の時はせっせと描いて自分だけの世界を形にしていた」と表現されるように、特に夏休みにも漫画を描いていたようです。
ですから、現在の蒼太は勉強ばかりするようになった夏がより鬱陶しく感じるようになったのだと思います。
そして、叔母さんからこの作品のメッセージとも取れる言葉を聞かされます。
「本気でやって無駄になることなんて一つもないのよ」
僕はここで頷いてしまいました。
現実においても叔母さんという存在は特殊です。
叔母さんは、どこか程よい距離で本当の自分を見ている存在であったりします。
そんな叔母さんだからこそ、漫画の専用道具や、夢中になって描いていた漫画をカンカンの中にとっておいてくれたのだと感じます。
叔母さんはカンカンの中に蒼太の夢をとっておいてくれました。
ここで、現実を求める両親と、夢をとっておいてくる叔母さんとの対比が窺えます。
それで、蒼太は平坦な道を行くことになったのは、失敗が怖かったからだと
気づきます。
蒼太はいつの間にか、平坦な道を行き、自分を見失ったと振り返ります。
自分を見失ったとは、夢を見失ったことだと取れます。
蒼太は「また見つけられるだろうか?真剣に打ち込める何かを」と自問自答します。
少年時代の蒼太は漫画を追いかけていました。
現在の蒼太は、真剣に打ち込める何かを見つけようと自問自答しますが、それは必ずしも漫画だとは言っていません。
この作品上では「真剣に打ち込める何か」と表現されています。
しかし、僕個人としては、それが漫画でなくても、世界がビビッドに見える現在だからこそ真剣に打ち込める何かがきっとあると感じました。
夢を見つけることは、自分を見つけることと言い換えられます。
蒼太は夢を見失って自分を見失っていました。
しかし、叔母さんの家で夢を見つけ、自分を見つけました。
蒼太は「結局、真っ直ぐに突っ走るのが一番の近道なのだから」と道を変える決意をします。
この部分は、冒頭の「最短のルートを行くのが日常」という表現と呼応します。
余談ですが老子は、万物を生み出すものを道と表現しました。
僕は、蒼太が決意した真っ直ぐ行く道は、万物を生み出す道だと確信します。
真っ直ぐ行く道は、冒頭に書かれたようにきっと坂道だと思います。
それでも、蒼太は最後に少年時代のように失敗を恐れずに夢を追いかける道を選んだのだと読めます。
蒼太にとって、この夏に道が変わったのです。
②「この夏に道が変わる」の対立軸
「この夏に道が変わる」の対立軸を探ります。
まず一番大きい対立は、真っ直ぐ行く道と逸れた道です。
続いて、夢と現実です。
そこから派生する形で、少年時代と現代、叔母と両親、漫画と勉強などが挙げられます。
隠された対立として、日頃のどうしようもないことと熱いバトルという対立もあります。
この作品は冒頭で「道は何通りかある」と表現されるように、
言わば天秤がどちらを差すか、つまりどの道を行くかは、いくつも答えがあると暗示します。
この作品は、そのちょうど逸れた道から真っ直ぐ行く道に変わる瞬間を切り取った作品と考えられます。
それは、言わば天秤の針が左から右へ、あるいは右から左へと転換したことを意味します。
つまり、心の中の葛藤に、答えを見つけた瞬間を意味します。
心の中の葛藤に答えを見つけるとは、何通りもある道から一本の道を探り出すことです。
ですので、この作品では、じゃぁ蒼太にとって何が大事だったのかということを「こういうときに、あの人は打ってつけだから」と、叔母の元へ探しに行ったことになります。
実際、自分にとって何が大事なのかを見つけるのは簡単ではありません。
特に、中学生となり、世界がビビットに見えてくると、何もかも大事に見えるし、何もかもが大事じゃないようにも見えます。
本当に「道は何通りもある」わけです。
そこで、蒼太にとっての好みがどういうことなのかと考える上で参考になるのが、
少年時代に読んでいて、途中で飽きてしまった漫画です。
蒼太はその漫画が途中から熱いバトルを描くようになったので、飽きてしまいました。
本当は、蒼太は日頃のどうしようもないことを読みたかったようです。
少年時代の蒼太はもしかしたら、日頃のどうしようもないことを漫画に描きたかったのかもしれません。
現代の蒼太はもう漫画を目指すことはないのかもしれませんが、
蒼太が漫画でないことを目指すとしても、おそらく熱いバトルではなく、日頃のどうしようもないことを目指すのだと思います。
③「この夏に道が変わる」の結末が意味すること
この作品は夢が重要な言葉となってきます。
誰かが「この世界は、現実が夢で、夢が現実だ」と言っていました。
蒼太が中学生になり、現実が見えてくると、徐々に夢を見失っていきます。
しかし、その誰かの言う通り、現実に見えることは、本当は夢であり、
夢に見えることが、本当は現実です。
蒼太はこの夏に道が変わりました。
ここで意味する夏とは文字通りの季節の夏という意味も含みますし、
中学生という、人生においての夏という意味も含むように思います。
結末では「何通りもある道」、つまり「何通りもある生き方」に答えを出します。
それはきっと真っ直ぐな生き方を目指すことであり、平坦でない生き方を目指すことです。
蒼太にとっては、叔母さんとカンカンにしまってあった漫画の道具が、蒼太の道を決定づけてくれました。
この先、蒼太はまた道に迷うことがあるかもしれませんが、その時は
やはり叔母さんとカンカンにしまってあった漫画の道具が、蒼太の道を決定づけてくれる気がします。
作品を読み終えて、蒼太にとっての叔母さんとカンカンにしまってあった漫画の道具は、僕にとっては何にあたるだろうと考えてしまいました。
僕はこの作品から、真っ直ぐに道を行くことを学んだのですが、
実際にその道を歩み始めることが大事だと感じました。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございます。
おまけ:検討図
過去の考察はこちら。