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統合失調症と引き寄せの法則④ 〜人生の荒波に乗る方法〜

みなさんこんにちは。

 

「統合失調症と引き寄せの法則 〜人生の荒波に乗る方法」も第4回となりました。

 

今回は、「望む現実」について書いていきます。

 

幼稚園児の僕が「望む現実」とは何だったのかを考えてみると、

 

幼稚園児の僕が「望む現実」は、「遠足の時間いっぱいソリ遊びを

 

すること」でした。

 

あいにく、ふいに目に入ったお化け屋敷によって、

 

その「望む現実」は夢の中に消えてしまい、

 

代わりに「望まない現実」が現れてきたのですが。

 

ここで、詳細に確認したいことが一つあります。

 

幼稚園児の僕はもう一つ望んだことがあるということです。

 

それは、「お化け屋敷が遊園地から消えること」です。

 

幼稚園児の僕は「お化け屋敷が遊園地から消えること」を望みました。

 

しかし、その望みはいくら泣き叫んでも叶うことはありませんでした。

 

この望みについて考えてみたいと思います。

 

「お化け屋敷が遊園地から消えること」と「遠足の時間いっぱいソリ遊びをすること」

 

は、どちらも幼稚園児の僕が望んだ望みです。

 

しかし、両者の望みはどのように違うのでしょうか?

 

「遠足の時間いっぱいソリ遊びをすること」は言うまでもなく、

 

幼稚園児の僕が前日から夢に描いていた望みです。

 

一方、「お化け屋敷が遊園地から消えること」は、

 

幼稚園児の僕が前日から夢に描いていた望みではありません。

 

実際に遊園地に辿り着き、お化け屋敷を見て望んだ望みです。

 

仮に、ここで「お化け屋敷が遊園地から消える」という望みが

 

叶ったときのことを考えてみましょう。

 

「お化け屋敷が遊園地から消える」という望みが叶ったとき、僕はどうなるのでしょうか。

 

僕は、「お化け屋敷が遊園地から消えること」を望んで、泣き叫んだ。

 

すると望みが叶い、不思議なことに目の前にあったお化け屋敷が光に包まれて

 

遊園地から消えてしまいました。

 

跡には何もない空き地が広がっているだけです。

 

望む現実が目の前に広がりました。

 

それを見た僕は、望みが叶ったと大喜びしました。

 

そして、意気揚々と心からソリ遊びを楽しみました・・・。

 

これはどうでしょうか。

 

何かちょっとおかしい部分がありそうです。

 

それは、もし幼稚園児の僕が「お化け屋敷が遊園地から消える」という望みを叶えられるのなら、

 

どうして最初から「遠足の時間いっぱいソリ遊びをする」という望みを叶えないのかということです。

 

「遠足の時間いっぱいソリ遊びをする」というのが前日から夢に描いていた本当の望みだったはずです。

 

わざわざ最初に「お化け屋敷が遊園地から消える」という望みを叶える必要はありません。

 

最初から「遠足の時間いっぱいソリ遊びをする」という望みを叶えればいいだけです。

 

それをしないというのはどういうことかというと、

 

僕は最初に「お化け屋敷が遊園地から消える」という望みが叶わないと

 

「遠足の時間いっぱいソリ遊びをする」という本当の望みは叶わないと思っているということです。

 

だから、僕は最初に「お化け屋敷が遊園地から消える」という望みを叶えたのです。

 

この仮定の話の中には、

 

実は重大な表現が含まれています。

 

それは、「本当の望み」という表現です。

 

前日から夢に描いた「遠足の時間いっぱいソリ遊びをする」という望みは「本当の望み」と表現しました。

 

一方、

 

当日、お化け屋敷を見て望んだ「お化け屋敷が遊園地から消える」という望みは単に「望み」と表現しました。

 

「本当の望み」とただの「望み」は何が違うのか?

 

それを考えるために、

 

太陽が作り出す光と影にあやかって、この2つの望みを

 

「光の望み」と

 

「影の望み」と表現することにします。

 

最初に「影の望み」が叶わないと「光の望み」が叶わないとは、

 

どういうことでしょうか。

 

そして、そもそも「お化け屋敷が遊園地から消えること」、

 

言わば「影の望み」を叶えることは、

 

幼稚園児の僕が「望む現実」だったのでしょうか。

 

次回は、「光の望み」と「影の望み」について書いていきたいと思います。

 

長文にお付き合いくださりありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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